たまお(ニワシドリ)の日記

感想つれづれ。飛び道具は持たないでお入りください。

「雨」をお題とした名コピーライターたちの作品集である[書評]雨のことば辞典/講談社学術文庫

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白い花が雨で濡れ、茶色く腐っていく。

卯の花腐たし(うのはなくたし)」という、春の雨を表す言葉があるのを知ったのはいつだったか。季語を調べていたときのことだったと思います。腐らせるというネガティヴなことばのはずなのに、なぜか美しいことばだと思ったものでした。

 

卯の花、とは卯木(うつぎ)の花のことで、町ではあまり見かけません。私も山道でいちど見たことがあるだけ。鮮やかな緑の中、5つの白い花弁が房のように連なり、パッと目を引いたのを覚えています。

卯の花腐たし(うのはなくたし)」とは、この卯木の花を腐らせる雨のことを表す言葉です。雨のふりかたや季節のみならず、花を腐らせるという先の物語を名前にしてしまう、いにしえの人々の名コピーライターっぷりにも感心させられてしまいます。

 

この「雨のことば辞典」には、そんな無名の素晴らしきコピーライターの作品が多数登場します。

▼雨のことば辞典/倉嶋厚原田稔著/講談社学術文庫

https://www.amazon.co.jp/dp/4062922398/

 

花を咲かせたり、木の芽を吹かせたり、穀物を育てたり、雨はいろんな役割を果たします。沖縄の雨の呼び名で「イジュの花洗いの雨」というものもあり、これはイジュという白い花に降り注ぐ6月ごろの雨。すてきなネーミングですね。

 

昔からの習慣を表すことばも、たくさんあります。九州地方の「雨訪(あまどい)」は、雨の後に被害があったお家を訪問すること。昨年も豪雨被害がありましたが、昔から九州地方では台風の被害が多く、互いに助け合ってきた様子がうかがえます。

 

「雨ふり正月」は、雨が降ったことによって、畑仕事が休みになる楽しさを表したもの。今の時代でも子どものころは台風で学校が休みになると、ちょっとしたウキウキ感があったものですが、それに近いのかな。昔から大人もそんな気持ちだったんだな、という親近感が湧きます。(しかし今の会社勤めの大人たちは台風がきても前夜から泊まるなどのニュースも。さしずめそんな雨は「サラリーマン泣かせ」とか「前泊嵐」とかになるのでしょうか。)

 

一冊を通じて、雨のことばがずっと、あいうえお順で記されていますが、単なる辞書ではなくて、色んな詩歌や文学作品やエピソードが引用されており、とても楽しく読めます。一気に読むというよりも、一日に4、5ページずつぐらい読んで、ちびちび味わう感じ。

 

辞典でありながら、雨にまつるあらゆる物語に思いを馳せられる本。雨の日曜日に、静かな春雨の夜に、ぜひどうぞ。

 

▼雨のことば辞典/倉嶋厚原田稔著/講談社学術文庫

https://www.amazon.co.jp/dp/4062922398/

彼女から100年後の世界を生きる私たちは、「自分ひとりの部屋」を手に入れたのか?[書評]自分ひとりの部屋(ヴァージニア・ウルフ)

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『自分ひとりの部屋』…このタイトルに惹かれて買いましたが、読むうちにどんどん惹きこまれてしまいました。読み終わると「部屋」の意味するところが変わってしまうほどに。

 

作者のウルフは今から100年前のイギリスの女性作家です。『ダロウェイ夫人』『灯台へ』など優れた作品をのこした人です。(日本でも昨年、PARCOプロデュース・多部未華子さん主演で『オーランドー』の演劇が上演されています。)

 

でも今回紹介する『自分ひとりの部屋』は小説ではありません。46歳のウルフがケンブリッジ大学の女子学生への講話をエッセイのような形にまとめたものです。実はこの年1928年、イギリスで初めて女性の完全参政権が認められた年でした。そんな背景から、若い女性たちへの強いメッセージ性に満ちています。

 

『自分ひとりの部屋』ヴァージニア・ウルフ著・平凡社ライブラリー

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4582768318/

 

語り手であるウルフは、朝のケンブリッジ大学の美しい庭を歩きながら「女性と小説」という講演のタイトルに疑問を持ち始めます。大英博物館にて女性について書かれた過去の批評を読み、あきれ、憤り、クスッと笑い、ウイットに富んだ突っ込みをするようすは批評家としてのウルフの真骨頂。

 

そしてたどりついた答えが…

 

「女性作家に必要なのは、500ポンドの年収と、自分ひとりの部屋」。

 

まず自分で生活していける年収を得ること。そして誰かの世話を焼き、つねに関係性の中でものを考えることから切り離された「自分ひとりの部屋」をもつこと。

 

彼女は学生たちに語りかけます。もし17世紀、シェイクスピアに妹がいたなら、彼女の人生は最後に十字路で埋葬されるような悲惨なものであっただろう、と。かくいうウルフは、生涯精神の病に苦しみ、59歳で自殺しました。しかし彼女の作品はイギリスの文壇で高い評価を受け、100年後にも世界中で読まれつづけることになりました。

 

講演の最後、ウルフの想像力の翼にのって、わたしたちは100年前に生きた架空のシェイクスピアの妹へ、そして100年後を生きるわたしたち自身の心へと運ばれます。

  

"さて、わたしの信念はこうです。一語も書かずに十字路に埋葬されたこの詩人は、いまなお生きています。みなさんの内部に、わたしの内部に、食器を洗い子どもを寝かしつけるためにこの場にいない、他の数多くの女性たちの内部に、生きています。ともかく彼女は生きています。というのも、優れた詩人というのは死なないのです。いつまでも現前し続け、チャンスを得て生身の人間となり、わたしたちと歩むときを待っています"

 

"わたしたち側の努力がなかったら、彼女が蘇ったときに生きて詩が書けると思えるようにしておこうという決意がなかったら、彼女ら出現できず、期待はかないません。でも、彼女のためにわたしたちが仕事をすれば、彼女はきっとくるでしょう。だからこそ貧困の中で誰にも顧みられずに仕事をしたとしても、そこにはやりがいがあるーと、わたしは断言するのです。"

 

 1828年のこのウルフの講演から、もうすぐ100年が経ちます。女性をとりまく環境は変わりました。しかしウルフが理想としたように、真の意味で女性たちが自らのことばを自由に語り、全力で生きている状況にあるかを考えてみると、少し考え込んでしまいます。

 

今を生きるわたしは、自分ひとりの部屋をもち、自分の言葉で語っているのだろうか。そのための努力が、仕事が、できているのだろうか。自分の生涯をかけて自らのことばで語ろうとしたウルフ。心が震える作品です。

 

『自分ひとりの部屋』ヴァージニア・ウルフ著・平凡社ライブラリー

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4582768318/

 

お題「好きな作家」

 

 

自然と一体となって生きるのは、もやは失われた幸福なのか[書評]夏の朝の成層圏(池澤夏樹)

お題「好きな作家」

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わたしがもっとも好きな作家、池澤夏樹氏、39歳のときのデビュー作です。ずいぶんとひさしぶりに読み返して、あらためて紹介したくなりました。30年前の著書ですが、まったく古さはありません。現代社会への深い内省が、みずみずしい自然描写とともに綴られています。むしろ、地方への移住や「ローカル」が若者たちの間でも見直されている今、あらためて読むと、池澤さんはこの流れを予見していたのかもしれない…と思いました。

『夏の朝の成層圏池澤夏樹著・中公文庫/1990

https://www.amazon.co.jp/dp/4122017122/

物語は、ある男が無人島に漂流した先での暮らしから始まります。ロビンソン・クルーソーのようなサバイバル?…と思いきや、物語は後半、少し不思議な方向へと進んでいくのです。
内容には触れないとして(ぜひ読んでみてください)、この作品にはその後、池澤さんがずっと追い続けることになるテーマが、既に美しく提示されています。実際に描かれているのは、漂流した1人の男の物語なのですが、読みながら彼の飢えを想像し、息づかいを追い、安らぎと喜びを想像していくうちに、おのずと対立する2つの世界が立上がってくるのです。
それは人が生きるうえでの、2つの幸福のとらえ方です。
…自然の混沌の中に溶け込んで、日々生きるためだけに生きるのか。
…人間が作り上げた秩序と安寧さの中で、思考する者として生きるのか。
その2つの対立は、形を変えながら、繰り返し繰り返し、何度も登場します。
自然/文明、
ふるさと/都市、
不揃い/秩序、
家/森の小屋、
語り/文字、
東洋なるもの/西洋なるもの…
それは単に「昔の暮らしが良かった」といった類いの浅い感傷ではありません。むしろそんなセンチメンタルさを排除するかのように、主人公は必要以上にクールに自らを振り返ることを迫られます。「仮に住む者」「資格がない」「つまらぬ罠」…。しかしながら語り手がクールであればあるほど、我々が失いつつあるもの、そして既に失ってしまったものへの喪失感が胸にせまってきます。

池澤さんの自然の表現は、不思議な透明感に満ちていて大好きなのですが、孤島を舞台とするこの作品は、あらゆるところにその表現が溢れています。たどりついた島でヤシの実を何とか削り、その液体がのどに流れ込んでくるさま。貝の肉を食べたときの体にしみわたる喜び。魚との格闘。冒頭の漂流のシーンでさえ、不安や恐怖よりも、自然に体をゆだねる喜びが伝わってくるほどです。
私たちは本当の飢えも乾きも今まで体験したことがないはずなのに、池澤さんの文章を読んでいると、体の奥にある何かが反応するかのように感じます。見たこともないような夕焼けが目の前に広がったり、行ったことがないはるか上空の「成層圏」に到達したような感覚が襲ってきます。池澤さんの卓越した文章の賜物なのでしょう。
自然と一体となって生きるのは、もはや私たちにとって失われた幸福なのかもしれません。しかしこの本を読むと、私たちにもその幸福の片鱗を味わう、わずかな端緒は残されているように思うのです。

池澤さんファンの方も、初めての方も、ぜひ読んでほしい一作。中編小説なので、さらりと読めます。

『夏の朝の成層圏池澤夏樹著・中公文庫/1990

https://www.amazon.co.jp/dp/4122017122/

 
 

NY旅行中に軽い気持ちで「SLEEP NO MORE」を見に行ったら、魂を持っていかれた話[導入篇]

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NYですごいものを見てきてしまいました。

 

さてここは、開設してからエントリー3つで終わっていた私のブログ

まさに…、うつくしき『ザ・3日坊主』。ほんとうに3回しか更新されてない。

人間、いやわたしの意思の弱さを可視化し、世間に晒すこと2年。もはや存在を忘れたい…このままネットの海に不法投棄しておくつもりでした。パスワードも忘れていたし。

しかし、そのパスワードを掘り起こしてでも更新したくなる体験が起きたのです。

それがNYで見てきたオフブロードウェイ「SLEEP NO MORE」であります。

 (導入なのでネタバレなしでお話しします)

 

●それはちょっとしたおすすめから始まった

 

お休みでNYにきたものの、あまり予定を詰め込まずにホテルでごろごろしていました。着いて2日目の夜もごろごろしていると、仕事の友人から「『SLEEP NO MORE』を見たらいいよ」とのメッセージが。

 

このときは『SLEEP NO MORE』が劇であることも知らず、とりあえずGoogle先生に質問することにしました。

 

そもそも今回はノープランの一人旅、当然ながらブロードウェイは何も予約していませんでした。ミュージカルは劇団四季でひととおり見ましたしたし、随分前にNYでもライオンキングとシカゴを見ました。そのときはノリの荒々しさといいますか、いまいち楽しむことができなかったのです。

 

しかし友人の「絶対見たほうがいい。私は3回行った」「帰ってきて見に行った人同士で話すと余計楽しい」とのおすすめに、さらに内容を掘り下げて検索してみました。

 

●グーグルにおすすめされるポイントが(良い意味で)怪し過ぎる

 

検索して出てくるのは、およそブロードウェイのイメージとは異なるものでした。

 

廃ホテルの中で行われる予測不能の演劇

・ホテルは6階、部屋は100以上ある

・見ている人はその中を自由に行き来しながら観劇する、何を目撃するかはその人次第

・全員仮面をかぶる

 

特に最後の「仮面をかぶる」あたりは意味不明です。予測不能、というあたりも、従来のミュージカルとはかなり違ったおもむきであるということが分かります。そもそも、肝心のストーリーがいまいち分かりません。「これはなんだか面白そうなにおいがする…」と急遽チケットを予約することにしました。

 

滞在中の急な予約なので、直接サイトから申し込むしかありません。

今回の劇場となるMcKittrick Hotelのサイトから申し込みます。

mckittrickhotel.com

 

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メニューの左上に「SLEEP NO MORE」ボタンがあり、日時と曜日を選びます。日時と曜日を選ぶ場所には、他のタイトルも混ざっているので、ご注意を。

 

このとき私の滞在中で、通常(Standard)チケットで空いていたのは深夜(22時)しかありませんでした。上映時間はマックス3時間。さすがに25時のチェルシーをひとりで移動するのは怖いので、やむをえず18時のプレミアムチケット(160ドル)を予約。通常が99ドルぐらいでしたので、かなり割高です。

 

正直、高い…でもそんなにしょっちゅう来ることもないだろうしNY 来たので演劇も見ておこう、ぐらいの気分でした。これがまさか旅のハイライトになろうとは。

 

こんなeチケットが送られてきて、気分が上がります!ウェーイ!

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●予約したところで、あわててシェイクスピアの『マクベス』を雑に予習

 

今さらですが、そもそもこの劇は何の話なのでしょうか。友人からは『マクベス』をさらっと復習しておけ、とのアドバイス。『SLEEP NO MORE』が有名なシェイクスピアの科白から取られているっぽいことは私にも分かります…たぶん。「お前が眠りを殺した!」みたいな奴だよね?

マクベスって、確か…

奸臣にそそのかされ、奥さん殺しちゃって、で最後に「うおおおおおお、しまった」って後悔して、自分も死ぬやつ…かな?

 

…違います、それは「オセロ」です。私のシェイクスピアの理解度はそのぐらいでした。

 

不安だったので、とりあえずwikiでストーリーをざっと確認。わかったわかった、王とか殺すやつね。あと、「もし、あの森が動いてきたら…!!」みたいな科白のやつだ。たぶん。

マクベス (シェイクスピア) - Wikipedia

 

そんな雑な予習しかしなかった私にあまり語る権利はないと思うのですが、さてこの観劇には、そもそも予習は必要なんでしょうか?ちなみにわたしの観覧後の見解は

 

 まあ、どっちでもいいかな

 

という感じです。

他の方の感想を読んでも、圧倒的に「さらっとでも予習した方が良い」派が多かったです。ただ、どのみち、あらすじどおりにストーリーを追うことはほぼ不可能なんですよね。

 

とりあえず主人公だったりを把握しておくのはよいかもしれません。いちおう間違いなくバッドエンドです。幸せなストーリーで感動したい場合はちゃんとしたブロードウェイに行くべし! 

 

●注意事項を確認しましょう

 

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履きやすい靴を履いてきてください。

コンタクトレンズを強く推奨します

・全ての観客は観劇中にマスクをつけなくてはなりません。

・コートや財布、バッグは持ち込めません。

・6:00の回を申し込んだ方は、遅くとも7:00までに入ること。

・その他、マキシミリアンズゲスト(今回私が頼んだプレミアチケット)は優先的に入れるよ…等の案内が。

 

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16歳以下はNG

・光るものを持ち込んではいけません。

・読者は「心理的に激しいシーン」に出くわします

 

さて、私はいつも眼鏡を装着しておりますので、注意書きを読んでいて「眼鏡、無理なのー?」と心が折れそうになりました(もう予約しちゃってるし)。しかもそのマスクが、こんな奴なんです。

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あ、これ無理じゃないかな…??

しかしその後、眼鏡でも観劇したというレビューを発見して一安心。ちなみに、マスクの下になんとかかけることが可能です。ただ、靴はヒールとか絶対NGだと思います。ストーリーの予習よりもコンタクトよりも何よりも、靴が大事です。

 

さて、こんなところで、準備は良いでしょうか。次に観劇に参りたいと思います。

 

つづく

 

川上未映子新訳『たけくらべ』〜恋する者の鈍さと、される者の無関心

 

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池澤夏樹さん個人編集の『日本文学全集』もついに3冊目に。
 
※名作なので今さら過ぎる感じもありますが、ちょっとネタバレしています。
 
川上未映子氏による、樋口一葉たけくらべ』の現代口語訳です。江戸情緒を残しながら明治へと移り変わる影絵のような花街。雨がしとしとふる路地に落ちた、ぽつりと1点だけにじむ鼻緒の紅の色。一葉のすばらしい色彩感覚を、まるで絵画のように味わえる名作です。
 
川上未映子さんの若々しい筆致により、少年や少女たちはまるで現代に生きる男女のように、いきいきと蘇っています。お話の主軸は、ヒロイン美登利と、彼女が憧れる信如なのですが、今回あらためて報われないサブキャラである正太の気持ちに寄り添ってみました。
 
正太は美登利の幼なじみで、彼女への親愛を不器用に表現しつつもけして報われない、ストレートに言うならば当て馬キャラです。
 
正太は確かに恋愛には疎いし、あと何かとタイミングが悪いのです。肝心の時にいなかったり、美登利の態度の変化に気づかなかったり…でも親分肌でもあるし、内心ウジウジしている信如に比べたら 明らかに精神的にはイケメンです。
 
美登利もそんな正太を信頼していて、一緒に散歩するシーンでは家庭のことで落ち込んでいる彼を励まそうとします。
 
「なあ正太さん、祭りのとき、すっごくかっこよかったよ」
 
「すごく似合ってて、わたしうらやましかったな。もしわたしが男に生まれていたらさ、あんなふうにしてみたいって思ったもん。誰よりも、いちばん、正太がかすっごくかっこよかった。」
 
 
正太はこう思ったはず…ここまで言ってくれて、このは俺に気があるんじゃないか…と!
 
でも違うのです。…悲しいかな、この台詞の中には1mmだって恋の気配は存在していないのです。なぜなら、女の子は恋する相手を羨ましいとは思わないから。ましてや「男に生まれたら、あなたみたいになりたい」…それは「恋愛対象外です」と言われているに等しい。正太、気づいて!
 
しかし初心な正太は気がつかないまま物語は終盤へ。美登利は、自分を励まそうとする正太にこんな風に言う。
 
 
「…帰ってほしい正太さん、お願いだからここにはいないで、かえってほしいの、このままそこにいられたらわたしはきっと死んでしまう、…」
 
 
好きな相手を励まそうとして、ここまで言われてしまう正太よ。この場面は、前半の美登利が正太を励ますところと鮮やかな対比をなしているのではないでしょうか。
 
美登利と信如の震えるような心のやり取りの遥か後ろで、モヤに閉ざされ一人だけ状況が見えない正太。恋するがゆえの鈍さは、恋される者の悲しいまでの無関心の前に、ひとたまりもありません。
 
大人になった私たちは、さまざまな事情で気持ちを押し隠すことに慣れています。それでも、青春の心の震えが鮮やかに刻まれたこの美しい小説に、自分のわずかに柔らかな部分が揺れ動くのを感じます。大人になってからこそ、読みたい一作です。
 

青空文庫〜「樋口一葉 たけくらべ

※2018.3.25 改稿

燕子花であって、燕子花でないものー尾形光琳『燕子花図屏風』に見る抽象性

 尾形光琳300年忌特別記念展@根津美術館、行ってきました。

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その感想を書く前に。
最初に、燕子花(カキツバタ)図をみたときの気持ちを記しておきたいと思う。
 
2011年に根津美術館で、はじめて尾形光琳の『燕子花図屏風』を見た。なんといっても国宝だし、美術の教科書の表紙にもなる日本絵画の至宝ということで、ちょっぴり気負って見にいった。
 
実際に目にして、その美しさと完成度に圧倒されつつ、なんだか底知れぬ「突き放したような感じ」を受けたことを覚えている。こちらの、「キレイな絵だねえ〜」という単純な感想を受け付けない、拒むような感じというか。
 
何より花鳥風月の絵にありがちな、情緒や季節感のようなものが欠落しているな、と感じたのだ。この絵は毎年、4月から5月での燕子花(カキツバタが咲く時期に公開されているのだから、皮肉なことでもあるけれど、少なくとも私は金地の背景に配置されたカキツバタの花から、季節の匂いは全く感じなかった。また、例えば花の儚さや移ろいやすさのような、情緒も漂っていない。もちろん、ふっくらした花の柔らかさと、凛とした葉の生命観など、確かに写実に基づいたリアルなカキツバタの存在感はあるし、そういう意味でもこの絵画は一流だとは思うのだけれど、それでもなお、その写実性すらもこの絵画の表層のように思える。
 
ここに表現されているのは、カキツバタの姿を借りた、もっと普遍的な何かのような気がする。じっと見ているうちに、燕子花の花も葉も、次第にその意味を失って、単純な「金・群青・緑青」の色/形の配置に見えてくる。燕子花であって、燕子花でないもの。『型』を使って表現されたと言われるパターンのせいもあるだろう、燕子花が、リズムを表現する道具にさえ見えてくる。
 
この絵の骨格は、色と形が織りなすリズムではないか。左上から軽快に始まり、画面下へと沈んでいく。右隻ではうってかわって豊かな高音を奏でながらクライマックスへ。その律動は、五線譜から切り取られたようにも見える。2小節に配置された、群青と緑青の音符だ。
 
抽象表現とは、自然のうちに先行する具象物を持たず、純粋に作者から生まれでるものを指すという定義にならうならば、この燕子花図屏風に抽象性を見いだすことは、的外れということになるだろう。しかし敢えて矛盾を含む表現だということを承知で言うと、光琳は具象物を使って抽象を表現できた、希有な画家とも言えはしないだろうか。抽象と具象とは、きっぱりと切り離せるものなのだろうか。絵画において、その“あわい”を行ったり来たりすることは不可能だろうか。
 
西洋絵画は抽象表現に至るまでに、まず奥行きと陰という「3D」の発想を破壊しなくてならなかった。線と輪郭によって構成される日本画は最初から3Dから自由だった。その自由を巧みに利用して、具象以上のものを表現してやろうという野望を抱いた画家がいたとしても、不思議ではない気がする。
 
 
▼燕子花と紅白梅ー根津美術館(2015/4/18〜5/17)

www.nezu-muse.or.jp

 

 

とびどぐもたないでくなさい。山ねこ 拝

Facebookは長文が向かないなあと思いつつ、絵のことを書いていると、どうしても長くなってしまう。そこで今さらなのは承知の上で、展覧会とかの忘備もかねてブログを始めてみた。
 
それで、ぼんやりと、山ねこのことを考えていた。
賢治の作品の登場人物(猫だけれど)で、山猫と言えば、『注文の多い料理店』をあげるだろう。でも実はもう一作、山猫の出てくる話がある。『どんぐりと山猫』という短編である。この愛らしいお話は、ある土曜の夕方、主人公のもとに、こんなはがきが届くところから始まる。
 
 
 かねた一郎さま 九月十九日

 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
 あした、めんどなさいばんしますから、おいで
 んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                山ねこ 拝

 
 
一般的に山猫がどのような手紙を書くのか知らないが、それにしても唐突な裁判への呼び出し文である。文章がまるでなっていないのは、まあ山猫だから100歩譲るとして、「とびどぐもたないでください」とは、あまりにストレート過ぎるお願いではないか。かと思うと最後は『山ねこ拝』ときっちり結ばれており、失礼なのか律儀なのか良く分からない。そのアンバランスさが可愛らしく、ニヤニヤしてしまう。

そして、よくよく考えれば、山猫であろうが人であろうが、誰かに初めて会う時にはどんな意味でも“飛び道具”は持たないで行くべきなのだ。読み返すうちにそんな示唆までつい読み取ってしまうのが山猫の智略のうちなのかもしれぬ。
 
「めんどなさいばん」が何なのか、一郎がどのように活躍するのか、果たして一郎は帰ってこれるのか。未読の方はぜひ。小作なので、青空文庫でさらりと読める。秋の里山の描写も、絵本のように美しい。
 
青空文庫で読めます〜「どんぐりと山猫」