燕子花であって、燕子花でないものー尾形光琳『燕子花図屏風』に見る抽象性
その感想を書く前に。
最初に、燕子花(カキツバタ)図をみたときの気持ちを記しておきたいと思う。
実際に目にして、その美しさと完成度に圧倒されつつ、なんだか底知れぬ「突き放したような感じ」を受けたことを覚えている。こちらの、「キレイな絵だねえ〜」という単純な感想を受け付けない、拒むような感じというか。
何より花鳥風月の絵にありがちな、情緒や季節感のようなものが欠落しているな、と感じたのだ。この絵は毎年、4月から5月での燕子花(カキツバタ)が咲く時期に公開されているのだから、皮肉なことでもあるけれど、少なくとも私は金地の背景に配置されたカキツバタの花から、季節の匂いは全く感じなかった。また、例えば花の儚さや移ろいやすさのような、情緒も漂っていない。もちろん、ふっくらした花の柔らかさと、凛とした葉の生命観など、確かに写実に基づいたリアルなカキツバタの存在感はあるし、そういう意味でもこの絵画は一流だとは思うのだけれど、それでもなお、その写実性すらもこの絵画の表層のように思える。
ここに表現されているのは、カキツバタの姿を借りた、もっと普遍的な何かのような気がする。じっと見ているうちに、燕子花の花も葉も、次第にその意味を失って、単純な「金・群青・緑青」の色/形の配置に見えてくる。燕子花であって、燕子花でないもの。『型』を使って表現されたと言われるパターンのせいもあるだろう、燕子花が、リズムを表現する道具にさえ見えてくる。
この絵の骨格は、色と形が織りなすリズムではないか。左隻上から軽快に始まり、画面下へと沈んでいく。右隻ではうってかわって豊かな高音を奏でながらクライマックスへ。その律動は、五線譜から切り取られたようにも見える。2小節に配置された、群青と緑青の音符だ。
抽象表現とは、自然のうちに先行する具象物を持たず、純粋に作者から生まれでるものを指すという定義にならうならば、この燕子花図屏風に抽象性を見いだすことは、的外れということになるだろう。しかし敢えて矛盾を含む表現だということを承知で言うと、光琳は具象物を使って抽象を表現できた、希有な画家とも言えはしないだろうか。抽象と具象とは、きっぱりと切り離せるものなのだろうか。絵画において、その“あわい”を行ったり来たりすることは不可能だろうか。
西洋絵画は抽象表現に至るまでに、まず奥行きと陰という「3D」の発想を破壊しなくてならなかった。線と輪郭によって構成される日本画は最初から3Dから自由だった。その自由を巧みに利用して、具象以上のものを表現してやろうという野望を抱いた画家がいたとしても、不思議ではない気がする。
▼燕子花と紅白梅ー根津美術館(2015/4/18〜5/17)